傑作まどマギ同人誌『隣の家の魔法少女』

 ネタばれ注意!未読の方は、どこかで本作を御一読されてから、この記事を読むことをオススメします。

 この記事は、「グロい」「鬱な」同人誌として悪名高い『隣の家の魔法少女』の評価を、わずかばかり向上させる事を目的として書いた、所謂プロパガンダ記事であります。
 確かに、ネットで言われているように、本作がグロくて鬱なことに間違いはありません。そこは認めます。そもそも、18禁同人誌でもなかなかお目にかかれないくらいに尖った作品ですしね。好き嫌いが大きく分かれるのもいたしたないでしょう。
 ですが、本作がその二言"だけ"で片付けられてしまっているような現状は何かヘンですし、なによりも、もったいないです。本作には、他にも多くの語りどころがあり、その深さは原作に勝るとも劣らないものがあると思いますから。
 
 以下本題、ネタばれ注意です。

・はじめに
 『隣の家の魔法少女』は、同人サークル蛸壺屋が2011年に発表した、人気アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の成人向け同人誌である。


・これまでの個人的な流れ
 本作の発表直後、小説『隣の家の少女』を模した表紙とタイトルに一本釣りされ、こわいものみたさで読んだ。すると意外にも熱い感動作で滅茶苦茶びびり、いまでは生涯ベスト級に好きな作品になった。
 しかし、ネットでは「グロイ」「欝なだけ」と不評。これまで蛸壺屋に対し好意的だったかたがたも、本作には首をひねっている様子。
 ずっとそんな状況を傍観していたが、3年近くたっても自分の感動を代弁するようなレビューが現われないから、自分で記事を書くことにした。

蛸壺屋
 ベテランサークル。けいおん三部作で一気に知名度を増す。鬱で有名。アンチ多し。
 萌え作品に「現実の闇」をガンガンぶち込む悪意のある作風と、「自分にとって魅力的な物語」をあくまで追求する、創作への真摯さ(ガチンコっぷり)が特徴。
 私はまだ最近の作品しか読めていないが、その中では「隣の家の魔法少女」「けいおん三部作」「俺妹本」が好き。
 まどマギ脚本家の虚淵玄田中ロミオと似たタイプの作家だと個人的に思う。

・全体構成
 基本的に原作tv版10^12話をリメイクしたような内容の物語。主役はほむら。4幕構成(私の数えるところ)。
 特異な部分が多々ある。作品の大部分を「隣の家の少女」「バニシェフスキー事件」「女子高生コンクリート詰め事件」を模したまどかへの虐待描写がしめ、序盤と終盤に数ページずつ、tv版10~12話をなぞる展開がはさみこまれている。

・あらすじ<1幕目>
 ワルプルギスの夜によって世界が破滅。ほむらが魔法少女化、時間を巻き戻す。<2幕目>
 巻き戻した世界では、まどかが和子先生から執拗な虐待を受けている。ほむらは傍観。虐待がどんどんエスカレートしていく。それと並行しほむらが変な行動を取りはじめ、最後にはまどかを溺死させる。まどかを地獄に叩き込んだ犯人が、ほむらであったことが明かされる。<3幕目>
 ほむら、まどかを救うために時間を巻き戻して戦う。tv版の流れに戻る。何度繰り返しても、ワルプルに勝てない。まどかが魔法少女化し、世界が改変される。<4幕目>
 魔女が消え、マジュウとの戦いへ。世界が滅びるまで戦い続け、マジュウとの最終決戦に挑むほむらに、天からまどかが声をかける。エネルギー回収の任務を終え、地球を離れるきゅうべえが、2人に敬意をしめす。

・第二幕の(表面的な)元ネタ
 1、「隣の家の少女」ジャックケッチャム(1986)
 バニシェフスキー事件を下敷きにした作品。最大の特徴は、事件を傍観する少年の一人称視点で書かれた物語であること。少年は事態の異常さに気付きながらも、被害者少女へ救いの手を差し伸べることができず、事態は最悪の結末を迎える。そんな立場の少年目線で事件の一切を体験させられてしまうため、読者はまるで自分が罪を犯してしまったような、実にいやーな気分になる。

 2、「バニシェフスキー事件」
 1965年にアメリインディアナ州で起きた殺人事件。事件を担当した検察官は、「インディアナ州の犯罪史上で最も恐ろしい事件」と評したとされる。『隣の家の少女』の元ネタ。
 小説との大きな違いは、①セックスの有無(実際の事件では、セックスが一度も行われない)②刺青の文字(「バニシェフスキー事件」では「I'm a prostitute and proud of it」だったところが「隣の家の少女」では「I FUCK ,fuck me」と改変されている。)

 3、「女子高生コンクリート詰め事件」1988
 詳細を知りたい方はwiki等でどうぞ。自分が知る限り、1人の少女に降り掛かった事件としては最も凄惨だと思う。
 
 このあたりの部分(まどかへの虐待描写)に関して最も重要なポイントがあるとすれば、それは「隣の家の少女」のパロディにはなっていない、という点だろう。本作『隣の家の魔法少女』は、小説『隣の家の少女』のあからさまなパロディ同人誌という体裁をとっているが、その内実はかなり違うのだ。はじめて本作を読んだ時に最も驚かされたのが、この点だった。
 本作では、セックスが一度も行われないし、まどかの腹部になされる刺青は「I'm a prostitute and proud of it」となっている。これは『隣の家の少女』ではなく、先述した実際の事件である『バニシェフスキー事件』からの引用である。そして、まどかへの虐待描写のディティールの中には、明らかに『女子高生コンクリート詰め事件』で被害者少女になされたものが含まれている。
 作者は、あくまで「現実の闇」を引用する事に、こだわっている。これが何を意図してのものであるかは、後述する。
 
 ・第二幕の(本質的部分の)元ネタ 
 本作の虐待描写部分が、『隣の家の少女』のパロディに見せかけた、日米の実際の事件の引用だった、ということを先述した。
 しかし、それはあくまで表面的ディティールにおいて、だ。
 私は、それよりも重要な元ネタが実はあるのではないかと思っている。ここから先は完全に個人的な深読みというか、勘ぐりである。

 作者が虐待部分を描くにあたってまずはじめに着想元としたのは、映画評論家の町山智浩による、映画『ダークナイト』の解説なのではないだろうか。
 
 その内容を以下にかんたんに。

 ジョーカーというキャラクターの源泉には、「失楽園」のサタン(=悪魔)の存在がある。
 金、女、名声等をまったく求めないのに犯罪を繰り返すジョーカーの行動原理が、キリスト教的文化背景を持たない日本人にはわかりづらい。「失楽園」を読むとその動機がわかる。
 「失楽園」で神に戦いを挑み敗れたサタンは、神が自身の分身として作り上げ愛している人間を誘惑する。蛇に化け、りんごを食わせる(原罪)。
 ジョーカーのやっていることも同じ。人間を誘惑する。人間が信じている正義、倫理を突き崩し、悪へと堕落させようとする。人間の本質が善でなく悪であることを証明しようとする。(人間を悪に誘う存在=悪魔)
ジョーカーとサタンは、これを通じて「神という絶対者」へ反乱しているのだ。俺たちは神の被造物ではない。俺たちは神の定めた道徳、倫理、その全てから自由であり、どんな罪だって犯すことが出来るのだ、と。
 キリスト教的文化のない日本の作家で、例外的にこのような価値観をもっていたのが石原慎太郎だと町山はいう。それが一番顕著に出ている作品が「完全なる遊戯」だ。
 「完全なる遊戯」のあらすじ。知恵遅れの清純な少女をチンピラたちが誘拐、監禁、輪姦する。それでも少女は全然へこたれず、善きままでありつづける。チンピラたちは少女を崖から突き落として殺してしまう。終わり。
 何故殺した?それは、「彼女の善性が恐ろしかったから」だ。チンピラたちは、人間に生まれつき備わった(神から与えられた)善性など存在せず、自由なのだと信じたい。なのに、少女は、人間には生まれつき善性が備わっていることを証明するかのような存在でありつづける。それがチンピラたちには恐ろしかったのだ。そしてその恐怖が臨界に達し、とうとう殺してしまった。

 この一連の町山解説から、着想を得たんじゃなかろうかと考える。まどかの善性を試すほむらは「ダークナイト」のジョーカー(=悪魔)。清純な少女を監禁・暴行し、どうなるかを試してみるというのは「完全なる遊戯」。善性に恐怖を抱き、最終的に主人公が少女を殺してしまうというラストも、「完全なる遊戯」と符合する。
 
 余談だが、なぜ『完全なる遊戯』単体ではなく「町山の解説」が元ネタだと思うのか、その理由を一応書いておきたい。 
 それは、『完全なる遊戯』からキリスト教的善悪の対決を読み取っている町山氏の解釈が、かなりユニークなものだからだ。にわか知識のため少し不安ではあるが、私は、そのように『完全なる遊戯』を解釈している論者を、他にしらない(いたらぜひ教えてください)。一般的な解釈は、倫理観・道徳感なき若者の凶行を描いた小説、ということになるのではないかと思う(少なくとも江藤淳や三島はそのように解釈している)。

 話をもどそう。作者が町山解釈による『完全なる遊戯』を使い何を描こうとしたか――それは、原作よりもはるかに壮絶な、ほむらという1人の少女の成長物語である。

・ほむらの物語
 強いコンプレックスを抱えた人物に改変されている。(元のほむらもそういう要素をもっていたが、それがより強く描かれる)

 「私にとっての苦痛とは身を切られるような劣等感 生来の病弱・弱気、人と同じことが出来ない自分」「私はそれに襲われるたび、自殺かあるいは世界の破滅の妄想を繰り返していた」(台詞は本作から引用したもの。以下、全ての台詞は同じく引用。)

 しかし、いざ死が近づくと、戦おうとするまどかを残して逃げ出す。
 そこにきゅうべえが問いかける。何で逃げるんだい?死にたかったんじゃないの?

 「そんなの当たり前じゃない!」「私はあの人たちと違ってフツーの人間なのよ!!」「それに・・・鹿目さんは家族が仲良くて友達もいて、守りたいものがたくさんあるから戦ってるんでしょ」「だれもお見舞いに来ない、友達もいない私とは違うよ」
 内心まどかを馬鹿にしている。
 「小柄でおとなしい」「特にとりえも無く平凡で目立たない娘」「私がクラスで仲間はずれにされても鈍いのか1人だけ態度が変わらなかった変な娘」「戦うなんてことは一番似合わない」
 ここでちょっと余談。本作では、ワルプルギスの夜が台風ではなく明確にラスボスとして改変されている。これにより原作の粗の一つ(台風ならば、まどかを連れて避難すれば良いじゃん)が解消されているのが面白い。

 きゅうべえがカミングアウトする。ワルプルには絶対勝てないし、敗北した時点で地球は滅ぶと。それを聞いたほむらは、何故か魔法少女になりたがる。ほむらの魔法で時間が巻き戻る。

 巻き戻った世界では、まどかを取り巻く環境が激変している。危うい家庭環境、友達ガラ悪い、頭はばか、運動神経もにぶい(全部ほむらよりもちょっと下というのがポイント)
 とうとう和子先生にあずけられてしまう。ここから虐待がスタート。

 虐待を傍観しながらヘンな行動をとるほむら。まどかに、「約束してきゅうべえと契約しないって」「きゅうべえより私を信じるって」とせまる。なのに、きゅうべえに「契約するように言って、今なら我慢できずにするはずよ」なんて言ったりする。とうとう最後には、まどかを溺れさせ、殺す。ここで、まどかを地獄に叩き込んだ犯人がほむらであった事が明かされる。

 ほむらは何故こんな犯行に及んだのだろうか。以下は、私の個人的解釈である。
 第一幕目、自分よりも格下の存在と見くびっていたまどかが、ワルプルなんて途方もない怪物に立ち向かったという事実が、ほむらの心をいたく傷つけた。彼女の持つ強いコンプレックスを刺激されたのだろうと思う。
きゅうべえに対する台詞からも明らかなように、それからほむらはこんな風に考えた。まどかにはたくさんの友達としあわせな家族、つまりは守るものがあるから戦えるのだ。私はそういうものを何ひとつもっていないから、逃げ出すのも仕様がない、と。
 ナイスタイミングできゅうべえが世界の破滅をカミングアウトしたこともあいまって、ほむらはひとつの「遊戯」を思いつく。
 「まどかをひどい目に合わせてみたい。自分よりも、もっと過酷な境遇に置いてみたい。まどかが私と同じように弱い人間だと証明したい」
 ほむらが魔法少女化するさいに何を願ったのかは明かされないが、それはたぶんこんなところだろう。
 そして第二幕目、虐待がエスカレートしていく中で、ほむらはまどかと約束を取り交わす。「きゅうべえが契約をもちかけてくるだろうが絶対に応じてはいけない。私だけを信じて」と。
 どこまでまどかがこの過酷な状況に耐え続けることができるのか、彼女の強さを試すのだ。
 ほむらの勝利条件は、まどかがきゅうべえの甘言に負け、契約をとりかわすこと。その条件が満たされれば、私と同じような境遇になれば、まどかだって弱さを見せるに違いない、という仮説を証明できたことになる。
 しかしまどかは一向に契約に応じる気配を見せない。ほむらは、そんなまどかに対して徐々に恐怖を覚えていく。
 自身の命が消える寸前になっても約束を守り続けるまどかに耐え切れなくなったほむらは、彼女をバスタブに沈め、溺死させてしまう。
 まどかは圧倒的強者だった。ほむらは、敗れたのである。

 長々と書いてきたが、以下の台詞を読めばだいたいわかってもらえるだろう。

 「私は、人類がワルプルギスの夜を迎える前に、ひとつだけ知っておきたかっただけなんだ」「私のたった一人の友達、まどかも私と同じようにつらくなったら逃げ耐えられなくなったら約束も反故ににするってことを」「なのになんで」

 きゅうべえ「彼女に、君との約束を破りマミやさやか達を危険にさらすなんて、そもそも選択肢に出なかったんじゃないかな」

 「なによそれ、それじゃ私だけが馬鹿みたいじゃない」
「馬鹿じゃないよ、君はただフツーの人なんだよ」

 この「フツー」は、いじめ加害者でありながら罪の自覚がまったくないとか、さんざん周囲に迷惑かけてきた不良が「いつまでもハンパやってられねぇからさ」なんて言ってしれっと就職するみたいなニュアンスだろうか。

 地面に突っ伏して泣くほむら。たぶんここは『罪と罰』の名シーン(大地に接吻して詫びなさい!)の引用だろう。

 ジョーカーほむらは、ここではっきりと自身の敗北を悟り、「回心」する。キリストに出会い生まれ変わったパウロのように。私が間違っていた。私もまどかのように生きるのだと。まどかという圧倒的に善なる存在の、その突き抜けたカリスマに感化されたのだ。そして時間を再び巻き戻し、まどかを救おうとするのだが、ここできゅうべえがかける言葉が非常に重い。

 「時間を巻き戻すつもりかい」「いろんな人のこの数ヶ月を全て無かったことにするつもりかい」「まどかが味わった想像を絶する苦痛も苦悩も、全部無かったことで済ますのかい」「きみにそんなことをする資格があるのかい」

 しかし他に取れる手段はない。全ての罪を背負い、ほむらは時間を巻き戻す。ここからTV版と同じストーリーが展開していくが、大きく違う点が一つある。
 ほむらの「戦わなければいけない理由」が、これ以上ないほどの強さで付与されているという点だ。この人のようになりたいという「憧れ」と、その憧れの存在を自分自身が仕組んでしまった地獄から救わなければいけないという「贖罪」である。TV版の最大の弱点である、ほむらの動機付けの弱さ(単なるレズとしか思えない)が完全に解消されている。

 承知の通り、最終的にはまどかがアルティメット化して世界が書き換えられる。
 改変後の世界でも、ほむらはずっと戦い続ける。tv版では「彼女の意思を継いで」がその動機であった。本作にもその要素はもちろんあるものの、それ以上の動機がある。贖罪だ。ほむらにとっては、まどかが救った世界を守りつづけること=懺悔なのだ。
 とうとう地球が滅ぶまで戦い続けたほむらは、デビルマンみたいに翼を展開して最終決戦にいどむ(TV版ラストと同じ)。そこに、「がんばってね」とまどかが声をかける。
 
 TV版ではそれを聞いたほむらは微笑みをうかべる。目元は見えない。それが本作では文字通り「号泣」するのだ。とても感動的で切ないワンカットだと思う。
 かつて生き地獄にたたきこんでしまった。そして、私もこんな風になりたいと憧れた。彼女の意思を守るため、自身の罪をあがなうために、はてしない長き戦いにたえてきた。そんな相手からの激励である。このときのほむらの心境を想像すると、胸が締め付けられる思いがする。
 
 この後がまた泣けるんだ。最終ページで、エネルギー回収の任務を終えて地球をはなれるきゅうべえが、彼女”達”に敬意をしめすのだ。オマエら、凄かったぜと。あのきゅうべえが!
 この意味はでかい。原作TV版のラスト付近、改変後の世界で、ほむらがきゅうべえにまどかの話をする場面があったことを憶えているだろうか。ほむらの説明を聞いたきゅうべえは、「でもそれって君の妄想なんじゃない?」と冷たく言い放っていた。確かに、世界中でまどかを記憶しているのがほむらただ1人である以上、それは個人の妄想と区別がつかない。(ラストで、「これまでの物語がほむらの夢かもしれない」という可能性が語られる。このことからも明らかなように、原作は実は、ベタなハッピーエンドではなく、映画『トータルリコール』的な含みをもたせたエンドになっている。この意地悪さが実に虚淵らしい)
 しかし、本作のほむらは、徹底的に戦い抜いてみせた。きゅうべえにまどかの実在を信じさせ、敬意を抱かせるほどに。
 ここに描かれているのは、ささやかで、尊い、一種の勝利である。
 
 私ははまどマギ(原作のほうね)が大好きだし、10年に1本の傑作アニメと考えている。だが、「物語の切実さ」という点では『隣の家の魔法少女』のほうがはっきり勝っていると思う。

蛸壺屋が本作でやろうとしたことの推測
 「アニメのシナリオの骨子が、鬱屈からのカタルシス、すなわちしゃがみからのジャンプなワケですが、果たしてまどかのしゃがみでジャンヌダルククレオパトラに届くだろうか、というとちょっとカルマが足りていない気もしました。そこでもう少し高く飛べるようにしゃがみを大きくしてみたのが、この作品です。」あとがきから引用。

 TV版の設定を確認。魔法少女の強さは、本人が背負った因果、業に比例する。普通の少女であるまどかが世界を書き換えられたのは、ほむらが頑張ることで因果がまどかに集中したから。では、何故ほむらはあんなに頑張ることができたのか。そこがTV版の弱い部分だった。
 それを解消するために、ほむらに途方もない業を背負わせた。そして、ジャンヌやアンネ――歴史上非業の死をとげた少女――を上回る悲劇をまどかにあたえるべく、日米の少女にふりかかった最悪の事件を題材として選択した。
 ちなみにこの時期、3.11とその余波によって現実世界が大混乱している真っ最中である。そんななか、「コレ」を作り上げたのだ。
 ここまで物語性を突き詰めることの出来る作家は、そうそういるものではない。作家としての真摯さと業の深さに、私は敬意と、それから恐怖を感ずる。

蛸壺屋『俺と妹の200日戦争』

 原作より好き。ネタばれあります。


 『俺と妹の200日戦争』は、確かに悪意に満ちた作品だと思う。というか蛸壺屋作品はだいたい全部そう。オタクエクスプロイテーション作品である深夜萌えアニメが、それ故に持ち合わせるご都合主義、甘さを、作者のTK氏は許さない。「ヌルい!」と言わんばかりに、露悪的にカリカチュアライズした現実の闇をボンボンぶち込んで、萌えアニメという一種のファンタジーにぶつけていく。今回なら「積木崩し」と当時話題沸騰していた「11代目市川海老蔵暴行事件」がそれにあたる。あとは家庭崩壊からのガチンコ近親相姦も。 

 続いて作者は、キャラクターの「個性」のネガティブ部分を拡大し、現実的に再解釈する。これにより、現実に近づけた世界観に見合う生々しさがキャラクター1人1人に付与される。このキャラクター改変が毎度毎度実に上手くて、「現実的に考えたら確かにこんな感じになるよなぁ」と納得してしまう。本作の親父さんの描写なんかは、とても腑に落ちましたねぇ。ああいう人実際にいるよ。

 作劇手法を端的にいえば、原作のヌルい部分を最もきつく露悪的な形で語りなおしていく、ということにつきる。しかしですね、それだけで終わっていないのが本作最大の魅力だし、語り所なのだと思うわけです。

 原作である『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の物語の核心は、「理解不能だった妹が、実はひたむきに生きる魅力的存在だった」という事に主人公が気付き、妹への想いが変化していく、という部分だと思う。そして、それを見た視聴者が、タイトルの真意を覚る。「俺妹」とは、そんな物語だったと思うのだ。
 
 そして本作は、上記の事柄を完璧にふまえている。「俺妹」のかような本質を、別の形で再現してみせる。
 
 ラスト、カリスマJC読モからAV女優にまで落ちぶれてしまったキリノがずっと「メルル」を好きでいつづけていた事を、それを支えに生きてきたであろう事を、主人公が知る。そして思わず画面の中の彼女を鼓舞してしまう。「ガンバレ」「ガンバレ」と。彼女のひたむきさを知った主人公は、届くはずもないのに、そうせずにはいられなかったのだ。
 そして、AVのインタビューに答えるという形で、キリノが告白する。最高の笑顔をうかべながら。
 ――理想のタイプは?「お兄ちゃんですね!」
 ――いまでもお兄さんのこと好きですか?「大好きです」「許してくれたらまた会いたいですね」
 主人公の想いはあまりにも無力だし、キリノはこんな形でしか気持ちを伝えることが出来なかった。しかし、二人の互いへの想いは美しく尊い。こんなにも切なく感動的な場面は、そうはない。そして最後のコマの台詞。ズルい。こんなん泣きますって。
 
 本作は、ただ悪意的なだけで終わらずに、原作の物語をより純化した形で語り直してみせた、真摯な同人誌だと思う。

「評論家騙し」の話――『アンタッチャブル』と『沙耶の唄』

「評論家騙し」。これは私のオタク師匠が教えてくれた話なのですが、興味深い内容だったのでご紹介します。それはこんな話でした。

映画『アンタッチャブル』のクライマックスシーンは、『戦艦ポチョムキン』(映画を語る上で絶対に避けて通れない、歴史的な作品)の名シーン、「オデッサの階段」をオマージュしたものです。乳母車のあれ。

さて、そんな『アンタッチャブル』を映画評論家の荻昌弘が評論したそうです。その際彼は上記のシーンと『戦艦ポチョムキン』ついてのみ延々と語りつづけたあげく、とうとうそれだけで評論を終えてしまいました。

それを見た師匠はこんな風に思ったそうな。「評論家を騙すの、チョロっ!」

このシーン、実は映画の製作途中で予算が足りなくなってしまったために撮られた「苦肉の策」だったといわれています。このままだと、金が足りなくてクライマックスがしょぼくなってしまう。ならば、『ポチョムキン』にしてお茶を濁すぞ!監督はこんな風に思ったのでしょう。で、荻先生はそれにまんまと騙されて(釣られて)しまったというわけです。『アンタッチャブル』の魅力、語りどころはポチョムキンオマージュシーンのほかにも無数にあるのに。そこで思考が止まってしまったんですね。

このことから理解すべきは、オマージュ、パロディが「何か」から受け手の目を欺くためにもちいられる事がある、ということでしょう(あるいは受け手側が思考停止してしまうか)。『アンタッチャブル』の場合それは予算不足でしたが、そこを「うるさがた」ならば思わず語りたくなってしまうような仕掛けを施すことでうまくごまかした(=騙した)というわけです。

ところで、この話を聞いて「あ、あれも同じだ」と気付いたことがありました。まどマギ脚本で有名になった虚淵玄がエロゲライター時代に作った『沙耶の唄』。これの割と冒頭に、主人公の口から(=作者から)「昔読んだ漫画にこんなシチュエーションがあったよ(大意)」と、漫画の設定を引用している事が明かされます。ちなみにその漫画とは手塚治虫の『火の鳥復活編』の事。作者みずからネタばらしをしている事もあいまってか、『沙耶の唄』=『火の鳥復活編』という認識は、受け手の間でかなり共有されているようなのですが、よくよく『沙耶の唄』を読んでみるとこの2作、実はほとんど似てないんですよ。共通点は「普通の人間とは世界の見え方が違う主人公の、人外との恋愛もの」という1点のみ。そこからの物語展開はまるで違っています。オチは言わずもがな。自分は、これも「評論家騙し」の1種じゃなかろうかと思っています。

では、虚淵が『沙耶の唄』で受け手から隠そうとした「何か」とは?それは、「本当の元ネタ」ではないかと思っています。たぶんですが、『沙耶の唄』の本当の元ネタは『恋人たち』、『グリーンレクイエム』という2冊のSF小説です。

※『恋人たち』――当時タブーだった、「SF小説でセックスを描く」を初めてやった衝撃作。しかも相手は昆虫系の宇宙人。妊娠までしちゃいます。
※『グリーンレクイエム』――『恋人たち』から始まった、「異星人との恋愛モノ」のうちの1作。作者が女性で、SFらしくない叙情性が特徴。読後感が少女マンガみたいです。

物語の核心部で『恋人たち』にオマージュを捧げ(沙耶の最期)、沙耶の設定(恋に恋する少女)・ビジュアルイメージ(つるぺた、緑のロングヘア、植物っぽい感じ)を『グリーンレクイエム』から借り、物語の発端部に『火の鳥復活編』を使った。自分の思う『沙耶の唄』の正体はこんな感じです。

このあたりの事から受け手の目をそらすために、「評論家騙し」として、わりと当たり障りのない部分である『火の鳥』だけをネタばらしして目くらましに使ったのかなぁと思うのですが、実際のところはよくわからんです。虚淵って、作品を引用した場合にインタビュー等でがんがんそれをばらして、元ネタに対し敬意をしめす漢らしい人なのに、なんで『沙耶の唄』にかぎってはそうしないのか、不思議であります。

追記:『火の鳥復活編』のオチは、主人公が恋人のロボットと融合して「ロビタ」として生まれ変わるというものでした。これ、『沙耶の唄』のいっこ前に虚淵が作った『鬼哭街』のオチだったりします。だから、『火の鳥』とからめて語るべきは沙耶じゃなくてこっちなんじゃなかろうかと思う次第です。

『呪怨 白い老女』のおぞましさ

先週、DVDを借りて見た。クロユリ団地を見に行く前だった。

本作の三宅隆太監督は、俺にとっては「よく宇多丸のラジオに出てくる人(エエ声)」という存在でしかなかったのだが、「クロユリ団地」の脚本参加を知り、いい機会だと重い腰を上げてみた次第である。

見終わって、本気で二度と見たくないと思った。特に、ラストの一家惨殺とみひろの章がおぞましかった。「怖い」ではない。

この2場面で共通に描かれているのは、「霊に狂わされて、愛する人や大切に思っている人を自ら殺めてしまう」という恐怖だ。この恐怖は、いわゆるJホラーでよく描かれるそれとはだいぶ違うのではないかと思う。

Jホラー映画の恐怖とは、「被害者になる」恐怖だ。普通に暮らしている普通の人たちが、たいした理由もなく霊に襲われ、不幸になる。

これに対して、この2場面では「加害者になる」恐怖が描かれていると思った。特にそれが顕著なのがラストの一家惨殺(篤でしたっけ?の章)だ。

この章で霊がしたことといえば、主役の青年のタガをはずすことだけ。そして、彼がもともと内に秘めていた暗い願望が顕在化し、家族の全員を殺してしまう。(※この章の主役である篤は、司法試験に何度も落ち続けている浪人生で、そのことにより家族から馬鹿にされている。さらに、小学生の義理の妹に対し少々アブナイ好意を抱いている。と思われる。)

最初の嫌悪感を感じた理由にもどる。たぶん、オレは無意識的に「これが自分の身に起きたら」ということを考えながら見ていたのだと思う。で、「なんておぞましい!」となったのだろう。自分の内に秘めていた暗い願望が抑えられなくなり噴出、そのせいで他人に大迷惑をかける。......超怖えぇよ!幽霊に殺されるほうがまだマシだ!