「評論家騙し」の話――『アンタッチャブル』と『沙耶の唄』

「評論家騙し」。これは私のオタク師匠が教えてくれた話なのですが、興味深い内容だったのでご紹介します。それはこんな話でした。

映画『アンタッチャブル』のクライマックスシーンは、『戦艦ポチョムキン』(映画を語る上で絶対に避けて通れない、歴史的な作品)の名シーン、「オデッサの階段」をオマージュしたものです。乳母車のあれ。

さて、そんな『アンタッチャブル』を映画評論家の荻昌弘が評論したそうです。その際彼は上記のシーンと『戦艦ポチョムキン』ついてのみ延々と語りつづけたあげく、とうとうそれだけで評論を終えてしまいました。

それを見た師匠はこんな風に思ったそうな。「評論家を騙すの、チョロっ!」

このシーン、実は映画の製作途中で予算が足りなくなってしまったために撮られた「苦肉の策」だったといわれています。このままだと、金が足りなくてクライマックスがしょぼくなってしまう。ならば、『ポチョムキン』にしてお茶を濁すぞ!監督はこんな風に思ったのでしょう。で、荻先生はそれにまんまと騙されて(釣られて)しまったというわけです。『アンタッチャブル』の魅力、語りどころはポチョムキンオマージュシーンのほかにも無数にあるのに。そこで思考が止まってしまったんですね。

このことから理解すべきは、オマージュ、パロディが「何か」から受け手の目を欺くためにもちいられる事がある、ということでしょう(あるいは受け手側が思考停止してしまうか)。『アンタッチャブル』の場合それは予算不足でしたが、そこを「うるさがた」ならば思わず語りたくなってしまうような仕掛けを施すことでうまくごまかした(=騙した)というわけです。

ところで、この話を聞いて「あ、あれも同じだ」と気付いたことがありました。まどマギ脚本で有名になった虚淵玄がエロゲライター時代に作った『沙耶の唄』。これの割と冒頭に、主人公の口から(=作者から)「昔読んだ漫画にこんなシチュエーションがあったよ(大意)」と、漫画の設定を引用している事が明かされます。ちなみにその漫画とは手塚治虫の『火の鳥復活編』の事。作者みずからネタばらしをしている事もあいまってか、『沙耶の唄』=『火の鳥復活編』という認識は、受け手の間でかなり共有されているようなのですが、よくよく『沙耶の唄』を読んでみるとこの2作、実はほとんど似てないんですよ。共通点は「普通の人間とは世界の見え方が違う主人公の、人外との恋愛もの」という1点のみ。そこからの物語展開はまるで違っています。オチは言わずもがな。自分は、これも「評論家騙し」の1種じゃなかろうかと思っています。

では、虚淵が『沙耶の唄』で受け手から隠そうとした「何か」とは?それは、「本当の元ネタ」ではないかと思っています。たぶんですが、『沙耶の唄』の本当の元ネタは『恋人たち』、『グリーンレクイエム』という2冊のSF小説です。

※『恋人たち』――当時タブーだった、「SF小説でセックスを描く」を初めてやった衝撃作。しかも相手は昆虫系の宇宙人。妊娠までしちゃいます。
※『グリーンレクイエム』――『恋人たち』から始まった、「異星人との恋愛モノ」のうちの1作。作者が女性で、SFらしくない叙情性が特徴。読後感が少女マンガみたいです。

物語の核心部で『恋人たち』にオマージュを捧げ(沙耶の最期)、沙耶の設定(恋に恋する少女)・ビジュアルイメージ(つるぺた、緑のロングヘア、植物っぽい感じ)を『グリーンレクイエム』から借り、物語の発端部に『火の鳥復活編』を使った。自分の思う『沙耶の唄』の正体はこんな感じです。

このあたりの事から受け手の目をそらすために、「評論家騙し」として、わりと当たり障りのない部分である『火の鳥』だけをネタばらしして目くらましに使ったのかなぁと思うのですが、実際のところはよくわからんです。虚淵って、作品を引用した場合にインタビュー等でがんがんそれをばらして、元ネタに対し敬意をしめす漢らしい人なのに、なんで『沙耶の唄』にかぎってはそうしないのか、不思議であります。

追記:『火の鳥復活編』のオチは、主人公が恋人のロボットと融合して「ロビタ」として生まれ変わるというものでした。これ、『沙耶の唄』のいっこ前に虚淵が作った『鬼哭街』のオチだったりします。だから、『火の鳥』とからめて語るべきは沙耶じゃなくてこっちなんじゃなかろうかと思う次第です。